道場が本当の意味で「魂のふる里」であるように・・・開設六十七周年記念式典:佐野一郎総務式辞

 

素晴らしい神の子の皆さん、ありがとうございます。(拍手)

今年で67回目の記念日、飛田給練成道場の歴史の重みを感じられる次第でありまして、徳久克己先生がどのような想いでこの練成道場を造られたかを思い起こしております。

私は昭和28年にこの練成道場に参りまして、その頃の私は不治の病・結核・・・それも末期症状で、全身に結核菌が飛び散っていて、もう「手の施しようが無い」という状態の中でこの飛田給道場に来て、そして徳久克己先生のご指導を得て、下座の行・・・もう血を吐きながらね、ストーブを焚いたりお風呂を焚いたりして、その中から「人間は本来神の子で、現象的にはどんな状態が現れていても無いんだ!」ということが、本当に骨身にしみてわかって、感謝の気持ちになったときに結核が癒されたという思い出がありまして、その時私は生涯この飛田給に骨を埋めるという決心をしたんですね。

しかし使命というものは突然新たに湧いてくるものでございまして、ある日突然「山梨教区の教化部長を命ず」という辞令が来まして、私はもう飛田給で骨を埋めるつもりでいたのに、他所(よそ)に行くようだったらもう辞めたいと思ってですね、一時辞表を提出したことがあったんです。けれども当時の理事長・和田秀雄先生に「アンタは飛田給で救われて恩返しは出来ているのかね?」と言われたことがですね、本当に脳天を叩きのめされたようなショックを受けまして、「そういえば私は生長の家のみ教えによって、そして谷口先生の偉大なる教えによって救われ、徳久先生によって育てていただいたのに、何も恩返ししていなかった。申し訳ない!」という気持ちになって、「喜んで赴任させていただきます!」と言って行ったんですけれども、その行くとき・・・この道場の門を出るときに滂沱(ぼうだ)として涙があふれてきて、「いつの日か必ずこの飛田給に帰ってくるぞ!」と絶叫して、そして山梨に赴任したんですね。

で、そのあと山梨が6年、長野が9年、福井が9年と24年間にわたって教化部長をつとめて「もう飛田給に帰ることはないだろう、次はどこの教区かな?」と思っていましたら、「飛田給道場の総務を命ず」という辞令が出て、その時に「ああ、やっぱり私の本来の使命はこの飛田給にあるんだな」と感じて、また喜び勇んでこの飛田給に帰ってきたんであります。

これは私の例でありますけれども、そういう人達がですね、この練成道場からどれだけの人が出ているかわからないんでありますね。皆さんとともにこの飛田給・・・練成道場が本当の意味で「魂のふる里」であるように心から願いながら、本日の私の式辞とさせていただきます。どうも皆さん、ありがとうございました。(拍手)

 


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