今の私の原点は飛田給にあり・・・開設六十七周年記念式典:千葉教化部長・目等泰夫先生祝辞

 

皆さまありがとうございます(拍手)。
本日は道場開設67年ということで、誠におめでとうございます(拍手)。
日頃より佐野一郎総務をはじめ職員の皆さまのご尽力によりまして、この飛田給の歴史ある道場がますますご発展されますことを心より祈念申し上げます。

今日は祝辞ということで、ここ飛田給は東京第二教区になりますが、東京湾隔てて千葉から朝やってまいりました。多くの方が全国あるいは海外からこの飛田給の練成道場で救われた方がたくさんおられるのですね。ただいま佐野総務がこの飛田給練成道場にお出でになったのが昭和28年ということでございましたが、その時私は影も形もございませんでした(笑)。今はこんなに影があるんですけれども(笑)。
私は昭和29年の生まれでございまして、この飛田給練成道場は昭和23年5月29日に谷口雅春先生が初めて練成会でご指導頂いたということで、この練成道場を皮切りにその後宇治別格本山であるとか富士河口湖練成道場、そして総本山に練成道場ができてきたということでございます。私は昭和23年当時おりませんものでしたから、「神性開発」という、今回の練成会のサブテキストに指定されていますが、それを改めて学ばせていただいて、その開設当時のことを一部紹介させていただこうと思います。

「神性開発」の42ページ「練成会はかくして始まった」のところでございます。当時はこちらは皆さまご存知と思いますが、無痛分娩の産院を作ろうということで、徳久克己医学博士が呼ばれまして、戦後間もないころにいろいろ事情があって子供は産まれたけど育てられない・・・そういう子供たちを育てるとか、無痛分娩の施設を作ろうということで、病院を買い取って施設にしようとしたのですが、当時は日本はアメリカ軍によって占領されている状態で、「何故宗教団体がそういった産院を作るのか?」ということでなかなか許可が降りなかったということなんですね。そういう中でこの施設を買い取ったものの、持て余してもしょうがないということで、この施設を掃除してみんなで使っていこうということで、男女7人青年が集まって、そこから行をして勤め先に行ったということでございます。その辺のくだりのところが44ページにこのように書かれております。

私は直接、進駐軍の係のところへのりこんで行って、どうして許可しないかと尋ねると、宗教が何のために病院を開くのかという。私は、生長の家の無痛分娩を説明し、あわせて人間の病気全体について、心と身体との関係を研究するのだ、と答えた。すると、係の女の軍医は、それはとても金のかかることだから無理だというので、私は金ならいくらでもある、妙な顔をしている。私は、神の仕事をするのだから、神の無限供給を信じているので、そう答えたのだが、相手にはわからなかったらしい。
そして、なお、それはとても難しい仕事で、アメリカでもなかなかできない仕事だから、日本ではとてもできないことだ、という。そこで私は、アメリカでできないからこそ、日本人がやるのだ、と答えると明らかに不快な顔をしていた。私は別に大きなことをいったとも思っていないし、無茶をいったとも思っていないのであって、生長の家は宇宙の根本真理を説いているのだから、その教えから出た医学であれば、一切のことは解決できるという確信を持っていたから、自然に口に出たまでのことである。それいらい、どんなに交渉しても病院も産院も許可にならなかった。

(生長の家本部練成道場著「神性開発」44~45ページ)

今日お出での皆様方の中には、この飛田給で救われたという方がたくさんいらっしゃると思いますし、また佐野総務も結核で練成道場に来られて(救われて)、そしてお元気に各地の教化部長を歴任されてまた飛田給に戻られた、ということであります。
先月でしたか、この飛田給でお世話になった千葉の方で、喉頭ガンの方がおられましてですね、泉先生にご指導いただいたということでございました。その方が今回千葉の練成会に来ておりまして、とってもニコニコしながら来ておりました。と申しますのは、5月21日に声帯を取る手術をしようかということでございましたが、飛田給の練成会にお世話になって、そして先月千葉教区の練成会にですね、その方がまあ声を絞りまして、笑いの大会で優勝しました。奥様も来られまして「これで声が良くなるかもしれない」ということで、まあ私は「声わずらいですね」と言ったんですが(笑)、ご夫婦で来られて熱心に受けて帰られましたら、まあ今回は「お礼にまいりました」と練成会を今受けていただいております。大きな声で聖歌を歌っておられます。「飛田給では大変お世話になりました。泉先生にどうぞよろしくお伝え下さい」ということでございました。
生長の家は、徳久克己先生もそうでございますが、病院の医学博士として人の身体を医学的な知識で治したけれども、その方がしばらくしたら自殺してしまった。どんなに人の身体を治しても、その人の心を治さなければ意味が無いんだ、ということで徳久克己先生はこちら(飛田給)の病院・産院を作ることは叶いませんでしたが、人の心を、本質を「人間は神の子だ!」という教えを通して、多くの方々を導いて下さったんでございます。

私もこの昭和23年当時、あるいは佐野総務が教えに触れられた当時はまだ生まれていなかったわけですが、私の母は昭和24年、9月16日から29日まで、この飛田給の神性開発練成会に参加しております。当時は22歳でございました。昭和28年に結婚して、翌29年に私が生まれたわけでございますが、私の母もこの飛田給で親孝行の素晴らしさを学びまして、家に帰って涙ながらに親不孝を両親に詫びたということでございました。その後生長の家を通じて、私も母を通して生長の家を学ばせていただいて今があるわけでございまして、その原点は飛田給にあるということで、感謝感謝でいっぱいでございます。
そのような飛田給を、皆さまとともにますます発展させて、多くの方々に「人間神の子」の真髄を学んで頂く、そういうような場にしてまいりたいと思います。これからも「飛田給」、皆さまといっしょに大きく育てて、「私たちの飛田給」としてまいりたいと思います。
本日はまことにおめでとうございました(拍手)。